ピーマンという人物

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ピーマンという人物|会社を渡り歩いた末に自由業とは…

ピーマン

神奈川県生まれの63歳、気がついたらジジイになってました。

高校卒業後はごく普通のテキト〜なサラリーマンでしたが、いくつかか会社を渡り歩くうちに「どの会社もクソ上司ばかりだ!」との悟りを得て自由業へと足を踏み入れたのが運の尽き、サラリーマン時代よりも忙しく不安定な経済状況に陥ってしまったというのは…口に出せない本音です。

コロナが蔓延したこの2年ほどは、仕事も激減し結果として収入も激減、今では外で働く奥さんに食べさせてもらっているような「ヒモ」状態です。

この境遇、ナイショですが嫌いではありません(^^ゞ

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ピーマンのサラリーマン渡り鳥

自慢にもなりませんが、いくつかの会社を渡り歩いてきました。
現在とは労働環境が全く違うバブル景気の勃興期からバブルが崩壊後の停滞期あたりの話なので、今就職を目指している若い方にとっては「信じられない」話かもしれませんし参考にもならないかもしれません。いや、ならないでしょう。

1990年以前

というとバブルの崩壊までですかね。ピーマンが社会人になったのは1977年ですからそれから13年くらいはバブルの始まりから隆盛を経て崩壊までを経験したことになります。が、あまり記憶が無いんですね。
今思い出してみても金利が異常に高かったことくらいしか覚えていません。バブルが崩壊して大騒ぎになったあたりで「バブル景気だったんだ!」等と再確認するようなボ〜ッとした生活を送っていました。
そんなんでも特に困らなかったし、金利は高くて100万円を10年複利で預けると(郵貯ね)1.8倍くらいになって戻ってくるという世界だったんで真面目に働けばなんとかなる世の中でした。
そのときの郵貯の定額貯金の金利は年利で6.3パーセント位だったと記憶しています。
現在は郵貯の定額貯金が10年複利で0.002パーセントのようですから、6.3パーセントなんてちょっと信じられない金利でしょ!

会社員=正社員が当たり前だった

1986年に派遣業法が出来てはいましたが対象となる職種が限定されていたため、会社員は正社員であることが当たり前の世の中でした。今の若い人には信じられないかもしれませんが、転職をしたとしてもやはり正社員として採用されるのが当然の世の中だったんですよ。厚生年金や社会保険は当然のように加入できました。
もちろんパートタイムやアルバイトという働き方もありましたけどね。

現在のような不安定な雇用形態になったのはバブル崩壊後に現れた小泉政権と竹中平蔵からはじまり,その後の歴代自民党政権(一部民主党政権もありますが)の仕業だと思っています。あと経団連ね。
2003年に製造業派遣が解禁された頃から派遣社員が普通の働き方になってしまった感があります。

個人的な見解ですが、この派遣業法(労働者派遣法)と派遣業をなりわいとするパソナなどの派遣会社は、中間搾取により労働者の低賃金を生み出す「社会悪」だと思っています。

サラリーマン諸氏はもっと怒ろう!

今でも労働法制の改革(改悪)を企んでいる向きもあるようですが、今の労働法制がどのように積み上げられて現在の姿になったのか、その歴史を知ればその重要性に気づくでしょう。
労働契約と言っても会社側の方が圧倒的に力が強いという現実を見て、その力関係の不均衡から労働者をどのように保護するかという法律ですからサラリーマン諸氏はもっと自分のこととして考えないと後悔することになるんじゃないかなと思いますよ。

何年か前に「ホワイトカラーエグゼンプション」が取り沙汰されたことがありましたが、所得制限を見て「俺には関係ないや!」と思っていたあなた、その所得制限は省令でいかようにも変えられるようになっていたはずです。議会を通さずにです。これだと経団連のご意向で省庁が動きあっという間に所得制限撤廃にもなりかねませんでしたよ。おそらく所得制限撤廃の次にやるはずだったのはホワイトカラーのみでなくブルーカラーにも制度を適用することでしょう。こうなるとホワイトカラー・ブルーカラーを問わず、会社から「君は労働の成果が上がっていない」とか言われて際限なく働くことになるか給料を減額されるかのどちらかになっていたでしょう。こうなると最悪だね。

なぜ経営側がこのような制度をごり押しするのか?答えはただ一つ、経営者にとってとても都合のいい制度だからなんですね。

日本のサラリーマン諸氏は「もっと怒った方がいい」ですよ。暴動を起こせなどというつもりはさらさらありませんが、政治には期待していないとか選挙なんか面倒くさくてなどといっている間に派遣社員だらけになっちゃったじゃありませんか。

ホワイトカラーエグゼンプション(頭脳労働者脱時間給制度)
ブルーカラーのような肉体労働者や製造業従事者以外の、スーツを着てオフィスで仕事をするホワイトカラー労働者の一部に対する労働法上の規制を緩和・適用免除すること、またはその制度である

労働法
労働法は、資本主義における労働の諸関係を、《労働者の生存権》という法理念にもとづいて規律する法体系のことである[2]
近代以降の資本主義の展開にともなって、労働者と使用者(経営者、雇用主)の力関係(労使関係)に著しい落差・不平等が生じ[2]、過長な労働時間(過労) 等、劣悪な労働条件の下での労働を強いられ、また(労働者は労働を売ることのみが生きるための手段になっていたにもかかわらず)低賃金しか払われず、ひどく搾取されることになった[2]
古典的な近代市民法は、自由平等を原則としていて、(世の中の現実を無視して)労働者と使用者が対等平等な状態にいるとみなして、個別的な契約の自由ばかりを固守してしまい[2]、こうした労働者の保護が十分にできなかったため、労働法のほうは、社会における労使の現実を直視して成立した[2]。 別の言い方をすると、労働者の生存を保障するための市民法原理の修正として、社会権思想に基づいた労働法が生まれたのである。
参照:Wikipedia ホワイトカラーエグゼンプション労働法

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ピーマンの会社遍歴

仰々しく自慢することでもありませんが渡り歩いてきた会社をザッと振り返ってみます。
思い出すと結構いろいろなことがあって懐かしいような不思議な感じがします。
※会社の正式名は伏せておきます。

A電気株式会社(1977年〜)

高校を卒業してすぐに入社したA電気株式会社、社畜生活の始まりです。
A電気は東京都内にあったんですが、同業他社よりも多少給与水準も良く休みも多いし結構働きやすい会社でした。もちろん高卒ですから製造現場に配置されたことはいうまでもありませんが、日本の製造業全盛期の頃ですから結構忙しく働いていました。この頃は高卒で製造業に入り真面目にやれば一生なんとか食っていけると信じられる、まだ将来を見据えていける時代でした。

辞めたわけ

ここには3年ほど在籍していましたが人間関係でちょっとつまづいてしまい、なんだか面倒になってしまって、
「会社なんか他にもたくさんあるわい!」と粋がってやめました。ちょっと早まったかなぁと後悔したこともありますが若気の至りですかね。

その後のA電気

2000年頃に消滅…つまり倒産しました。名前だけは中国のファンドに買い取られたかで残っているようです。
元々オーディオ専業のメーカー(一部ビデオも作っていた)でしたがバブル崩壊後の不景気でオーディオ機器が売れず、あと急速にすすんだオーディオのデジタル化について行けなかったのも経営悪化の原因ようです。
一部上場企業だってのですが開発力はお世辞にも強いとは言えない感じだったので致し方ないのかなぁとは思いますが一抹の寂しさも感じますね。

株式会社●●●●(1981年頃〜)

A電気の次に就職したのが株式会社東●●●。ビルの傾きやダムの沈下具合などの測量機器を製造したり実際に測量をを請け負う仕事をしている会社でした。
ここは従業員20名ほどの小さな会社で「零細企業」でした。仕事自体は嫌いではなかったんですが、国内だけど出張が多いし残業も多い、そのうえ企業体質にもなじめなくて悩んだ記憶があります。社畜です。
知人に紹介されて入社した経緯もあって辞めるのにも気を遣いましたね。疲れますわ。

辞めたわけ

1年ほどしか在籍していないのですが、もう会社の体質に合わないにつきますわ。
もう頭の中がそんなことでいっぱい、グルグル回り始めて気がついたら辞めてました(^_^;)
辞めて「ホッとした」のを覚えています。よっぽどイヤだったんだな。

その後の株式会社東●●●

現在では全くつながりがないので詳しくは知らないのですけど、風の便りで聞いたところによると、いまでも存在しているようで東京都綾瀬市に移転している模様。会社規模も少し大きくなって不景気の続く中なんとかやっているみたいです。

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日本●●●株式会社(1982年頃〜)

この会社も電気関係の一部上場企業です。家庭用ビデオを開発した会社と言えばピンと来る人も多いかと思います。ここでも製造部に配属されました。もちろん正社員です。
ここでは家庭用ビデオの重要パーツ(画像の善し悪しに直結する部分)の製造を担当してました。半導体工場と同じようなクリーンルームで特殊繊維のクリーンルーム用の服を着て黙々と製造に励む…、社畜ですね。残業も多かったですし。
家庭用ビデオが広まり始めた頃で売れに売れていたので忙しいのは致し方ないのですが、クリーンルームってのがなんともイヤでして、拘束時間中は外界と遮断されてしまうし規則は細かいしほとほと疲れますわ。まっ、ホコリが大敵という製造物だったので当然と言えば当然ですが。

そうそう、空調設備が故障した時はほとほと疲れました。部屋の室温・湿度共に際限なく上がっていくので熱中症になるんじゃないかとヒヤヒヤ物でした。窓もないので換気できないんですよね。

VHSレコーダー

こんなもののパーツを製造してました。

辞めたわけ

ここには5年ほど在籍していました。なんで辞めたかというと10年後の自分がわかってしまったからなんですね。
大企業ですから社員のランク付けシステムがありまして、管理職コースと現場コースに分かれるんですが、中途入社は当然のごとく現場コース。自分より10歳上の現場コースに乗っている人を見ると10年後の自分が重なるわけですわ。なんだか考えちゃってね、50歳になっても現場であくせく製造かと思うとね、考えるだけで疲れますわ。管理職になりたいとかは全然なかったんですけどやっぱりね…。
というわけでもっと違う世界があるだろうとそこを飛び出してみました。結果的に良かったのか悪かったのか今だもって???です。

その後の日本●●●株式会社

バブル崩壊と共に業績不振が続いていたようで、家庭用ビデオも売り上げのピークを過ぎ、それに加えてオーディオ不況も相まって経営が悪化。いろいろな分野に手を出すもパッとせず業績回復には至らず、2007年にK社との経営統合を経て2011年10月1日をもってJ・Kホールディングス株式会社から商号変更した株式会社J・Kに吸収合併され現在に至るみたい。
栄枯盛衰世の習いというか何というか、一時はビデオ事業部だけで4000人とかの従業員を抱えていた一部上場の大企業だったんですけどね、ダメになるとダメなようで合掌。

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(株)●●●●プリント(1986年頃〜)

この会社は横浜にある印刷関係の小さな会社です。いよいよピーマンも印刷という泥沼に足を踏み込んでいくことになりました。
ここは印刷といってもその前の段階である「版下(ハンシタと読みます)」を制作する専門の会社でした。
この頃はまだDTPなど存在しない時代で、版下といえば台紙(厚紙です)に線を引いたり塗りつぶしたり、写植をはったりして作り上げていくという今考えると牧歌的な時代でした。版下製作の道具といえばカッター・定規・のり・ロットリング(キレイに線を引くペン)などで、パソコンの実用化以前の話です。

ここは残業が大量にありましたね。朝は9時始業なんですが終わるのは日をまたいで2時とかになる事もしばしばという16時間労働ですね。忙しい時はこれが続いて、一月の残業時間の合計が130時間なんてこともありました。
際限ない社畜状態でしたが不思議と「こんなもんかな〜」などと続けていました。職場の雰囲気が良かったこともありあまり疲れは感じませんでしたね。午前2時に終わった後ファミレスで騒いだりして結構むちゃくちゃなことやってましたけど、それがストレス解消になっていたのかもしれません。いま思い出すと苦笑いしかでませんがね。

辞めたわけ

社長とちょっとしたいざこざというか行き違いがありまして、またまた面倒くさくなって舐めました。こらえ性がないのが玉に瑕ですが、小さい会社だけに社長との距離が近すぎるのも考えものですね。

その後の(株)●●●●プリント

ここは今も現存して活躍?しているようです。
ピーマンが退職した頃(1988年秋頃)はDTPが台頭してくる前で、この会社はちょうど写研の電算写植システムを導入して間もなかったはずですが、その後ホンの数年でパソコン(Macintosh)によるDTPが盛んになってしまい、電算写植を捨てることもできずバブルも崩壊し結構大変だったんじゃないかな。
電算写植といえばシステム導入で最低でも1000万円でしたからおいそれと「DTPに変えちゃおう」とはならないでしょうしね。
今は地方紙の出版などを中心に手がけているようです。

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電算写植

電算写植と言っても今まで写植職人が手打ちで写植を行っていたのをキーボードで文字入力できるようになっただけの代物でした。文字を印画紙に出力できると言うだけで、その後は従来の工程でハンシタを作るというなんとも中途半端な電算化でしたね、今考えると。
その後に写研のサイバートだったかでページ単位で編集できる写植機が出ましたが、これとて印画紙にページ単位で文字出力できると言うだけでその後は従来の工程にのせなければなりませんでした。

写植〜版下〜製版〜刷版〜印刷

従来の作業工程はこんな感じかな。最初の写植が電算写植やサイバートに変わっただけだというなんとも中途半端な感じですね。これが今のDTPですと

DTP〜刷版(CTP(Computer To Plate))〜印刷

で済んでしまいます。写植・版下・製版=DTP みたいなものですから、今風に言えば「中抜き」でしょうか。
これで生産性は非常に向上したはずです。
※細かいところは無視して書いてあります。

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株式会社●●設●(1988年〜)

しばらく印刷からは離れることになります。

この会社は電子回路用のプリント配線板を設計する従業員30人いたかな?というくらいの小さな会社した。でしたというのはすでに消滅してしまっているからでバブルの崩壊と共に消え去ってしまったようです。細かいことは知りません。
ここの従業員はなぜか知らないけどA県の出身者がほとんどで一種の村社会を形作っていました。ピーマンはよそ者としてなんだか溶け込めない空気を毎日感じていましたね。溶け込む気もなかったけど。
それにろくでもないやつも多かったなと言うのが率直な感想。日曜日に出勤してきてタイムカードを押してから漫画ばかり読んでるやつとか,突然全く出社してこなくなるやつとかちょっと理解不能でしたね。
そんなこんなで仕事もしない残業代泥棒なのに「給料上げろ」と会社側にねじ込むんだからなにおかいわんやですわ。もっともその中にもとっても仕事ができるやつもいてその人には脱帽してたなぁ、俺。
そうそう、村社会だと言っておきましたがだからといって仲が良いわけでもなさそうで、本人がいないところでカゲグチを言ってけなしている…、そんな不思議な世界でしたね。疲れますよホントに。

プリント配線板

プリント配線板、こんなのを手で書くんだから生産性が上がるわけがない…。

プリント配線板の設計とは

それはそれとして、プリント配線板の設計と言えば聞こえはいいですが、やっていることと言えば定規と鉛筆で専用の方眼紙に手作業で書き上げていくという地味〜な仕事。手で書き上げた下図をデジタイズ、今で言うデジタルデータに変換してプリント配線板の下絵フィルムを作るという今から考えるとこれまた牧歌的な作業工程でやってました。設計も手作業、デジタイズも手作業、デジタル変換と言っても下絵から手作業で一つ一つ座標をひろってのデジタルデーター化ですから作業効率が悪いのなんのって、そりゃあもう信じられないくらい生産性は低かったですね。それでもやっていけたのは「バブル景気」だったからでバブルがはじけりゃコスト面で淘汰される運命だったのでしょう。

この頃からパソコンが急激に普及してきて(業務用のパソコン、i486とかを使って価格は100万円とかでした。個人用ではNECのPC-9800シリーズが市場を席巻していた頃です。i386搭載で40万円くらいでした)パソコンで動くプリント配線設計専用CADとかが出始めた頃でした。

同業他社はどんどんパソコンCADを導入して手作業では考えられないくらいの短納期で業務をこなすようになっていたのにこちらは手作業ではかないませんよね。
社長にはことあるごとにCAD化をお願いしたのですが「手作業の方が小回りがきく」とかでなかなかCAD化は進みませんでしたね。まぁ、今ではFreeのCADソフト(Ki CAD)もありますが当時はハード・ソフト共に非常に高価で法人でもなかなか手が出なかったのでしょう。

そんな中で記憶に残っている仕事は●●庁のミサイルに使うプリント配線板の仕事をしたことかな。ミリタリー規格なので衝撃にも耐えられるように銅箔の厚さもやけに厚いし設計ルールは厳しいし四苦八苦して作り上げましたね。もちろん丸い基板でした。
これがミサイルに搭載されて目標を破壊するかもしれないと思うとちょっと不思議な感じでした。

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辞めたわけ

毎度で恐縮ですが専務と喧嘩しましてね、机を投げつけてしまったので専務に…(もちろんぶつけないようにですがその辺は妙に冷静なのよ)それでけじめを付けるためにいさぎよく退職しました。(^_^;)
喧嘩の理由ですか?取引先との意思疎通に齟齬がありまして、専務=営業でしたから「こちらにもしっかり相手の要望を伝えて欲しい」とお願いしたところ、「黙って言うことを聞いてりゃいいんだ!σ(`´メ∂」とトンチンカンなことを言い出したので「ちゃんと伝えてくれないからミスが起こるんだろ、知らなきゃ従うもなにもないでしょ!(`ヘ´)(`ヘ´)」とまあ売り言葉に買い言葉です。
この専務、軒下で眠っている猫に石を投げつけたりする大人げないやつなのでさもありなんという所です。(ピーマンは猫好きです(^_^;))

この会社、CADの件でも業界から取り残されていくんだろうなぁと確信していたし潮時かなと思ってこれ幸いと辞めてやったです。ずるいね〜〜俺。

その後の株式会社●●設●

正直な所、詳しくは知らないんですよね。興味もなかったし。

何年か前にふと思いついてWeb検索してみたんですが法人ですから存在していれば引っかかるはずだと思うのですがいくら検索しても出てこないしストリートビューで見ても建物は残ってるのですが会社の名称は変わってるはでおそらくすでに存在していないのでしょう。

やはりというかなんというかバブルの崩壊で一気に仕事がなくなったんだと思う。小さい会社で体力なかっただろうし、合掌。

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●●●●印刷株式会社(1991年11月〜)

再度印刷業界に戻ったピーマンです。
この印刷会社は従業員100人くらいだったと思いますが地域では中堅の印刷会社でした。
相も変わらず版下製作にいそしんでいましたが、ここではあまり残業をした記憶がありません。その日の仕事を片づけて定時でさっさと帰るという行動を取っていたもので9時・5時が多かったですね。もちろん何が何でもかたくなに定時という訳ではなく仕事が多ければ終電まで残業もいとわない姿勢でいましたけどね。実際その通りだったし。そういった業界なんですよね、残業するのが当たり前というか何というか…。

版下製作のお友達、カッター・定規・のり・ロットリング(キレイに線を引くペン)を駆使して版下製作に邁進する毎日の中で突如現れたのが、Macintoshを使ったDTP(Desktop Publishing)だったんですね。

DTPへの変革

変革というほどのこともないでしょうが、今までの厚紙と写植の時代からMacintoshをつかったDTPへと時代はどんどん進んでいきます。

日本の場合は漢字を扱わなければならないという難関があったので、アルファベットと付属文字300文字程度を処理すれば事足りる欧米と違い印刷業務のDTP化は非常に後れを取っていましたが、1995年ころからようやく本格的な普及の時代に入ったようでした。
そのころのMacintoshといえば米国・Motorola社のCPU「MC68000」シリーズから米国・IBM・Motorola社が共同開発した「PowerPC」へ移行している最中で、その後数年で今のMacOSXに代わっていくのですが、それはのちの話。

今までとは全く違う印刷データの作成ですから一筋縄ではいきませんでしたね。
その時のDTPシステムはというと

PowerMac8100(懐かしいね)に20インチくらいのブラウン管モニター、スキャナー(1200DPI)といった感じで今のシステムとは比べ物にならないほど低性能の機材でしたね。今考えると笑えますね、こんなの使ってたんだみたいな。

PowerMac8100

参照:Wikipedia

DTPソフトは、QuarkXPress2.5、AdobeのIllustrator2.5、PhotoShop2.5(?)を旧MacOS(漢字Talk)で動かしていました。これらも今のバージョンと比較すると腹を抱えて笑っちゃうほど低性能のソフト群でしたね。
QuarkXPressは作成上の制限が多かったし、AdobeのIllustratorはレイヤー機能もない原始的なソフトで、今なら当然のプレビュー画面での編集すらできなかったんですから。
まずアウトラインモード(だっけ?)で編集してプレビューモードで確認、修正があればアウトラインモードに戻って編集の繰り返しで非効率この上なかったですね。

アウトラインモードといっても色も付いていない「線画」ですから、レイヤー機能もなかったので込み入ったデザインだともう「どこをいじっているのかわからない」状態に陥ったものです。

左がプレビューモード、右がアウトラインモード

左がプレビューモード、右がアウトラインモード

PhotoShopにもレイヤー機能はありませんでしたので同じくらい非効率でした。両ソフトともレイヤー機能が搭載されたのはVer.5.0からだったと思います。

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一番困った存在は印刷営業さんだった

元々印刷会社の制作と営業は仲が悪いというかなんというか、制作側ではとてもこなせないような時間設定でお客から仕事をとってくるので押し付け合いなどしょっちゅうでしたね。結局はやらざるを得ないんですけどほとほと困ったものです。

この困ったがDTP化でさらに拍車がかかります。

その頃はDTPというと「早い」「安い」「修正自由」といった吉野家の牛丼のようなイメージでとらえられていて、それをうのみにした営業さんが「早くできまっせ!」「安くすみまっせ!」「修正も自由にできまっせ!」で仕事をとってくるのでほとほと困りました。

「こんな日程でできるわけねえだろ!!(;`O´)o」
「もうお客さんにできるって言っちゃったし(´ε`;)」
で挙句の果てに
「オレDTPわかんねっからさぁ!よろしく!!」

これですよ。逃げの一手で制作側に押し付けて知らん顔ですからね、こんなんでも会社から見ると営業のほうが大事にされているんですから(ボーナスの額からして違っていたみたいでした。)やってられませんわ。

そんなこんなでこの会社でDTPを1年くらいやっていたのですが、ふと気が付くわけですよ。

これならパソコンがあれば一人で外注としてできるじゃん!?!?

で、会社を辞めました。

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辞めたわけ

今回はサラリーマンが嫌だったというわけではないのですが、先に書いたように「一人でもできるんじゃね?」と思い込んでしまったのが運の尽き、3か月後には辞めてました。
もちろんDTPを担当していたのはピーマンだけでしたので急にやめては会社に迷惑がかかります。そこで「DTPの仕事も増えてきたし」というもっともらしい理由でもう一人女性のDTP担当を増やしてもらいまして、3か月の特訓の末に一人前にできそうになったのを見届けての退職でした。義理堅いんだオレ。

ちなみに数年後、DTP担当の人数も増えていたみたいなんですが、その女性社員をはじめとするDTP担当女性社員の一斉退職騒ぎがあったようで、その話を聞いたときはびっくりしましたね。やるもんだ!
印刷業界は給料安いしボーナスも安い(本当に安いんだ!)、その上ここは同族会社で外様社員が頑張っても昇進などほとんど望めない状況だったので、何かをきっかけに「プツッ!」と来たのかな…。

その後の●●●●印刷株式会社

ピーマンが働いていた営業所は閉じてしまったようですが株式会社●●●●印刷は現在もきちんと営業しています。2代目社長もまだ60代前半くらいだろうし、身勝手で変な奴だったけど仕事はきちんとこなしていましたから不景気の中うまく業界を泳いでいるのではと推測しています。

まだまだ続きます

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